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コラム

東大生日記 diary1『君たちはどう生きるか』を読んで(執筆者:文系R)

真山メディア編集部

近頃の若い者は、何を考えているのか――。
未来のエリート候補と言われている東大生の“今”を、彼らの言葉で綴る。
そこから覗くのは、希望か、絶望か。

執筆にあたり、各人の共通初回題材として『漫画 君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)を読み、考えを述べてもらった。
本書は、1937年に出版され、時を経て漫画版が異例のベストセラーとなっている。戦前に書かれた本が、なぜ今、現代人の心を捉えたのか。本に込められたメッセージがこれからの未来を担う彼らにどう受け取られているのかを探る。

■diary1『君たちはどう生きるか』を読んで

吉野源一郎著の『君たちはどう生きるのか』は、私たちが世の中でどう生きていくかを問いかけ、主人公コペル君がその答えを見つけてゆく小説だ。コペル君は、友達との喧嘩や社会の不正義の経験を通してあることを決意する。曰く、貧富のある社会では、人間らしい生を歩めていない者が多くいる。だが、社会は助け合いで出来ている。だからこそ、僕は社会を良くするために生きるのだ、と。物語を通じて、読者に社会貢献の大切さを訴えている。
著者の吉野さんの考えに触れると、私は一瞬どきりとして言葉に詰まってしまった。自分の中でいつも大きな問題であったのは「将来何をしたいか。」「自分の幸福とは何か。」という自分中心的な問いばかりであるからだ。「社会をよくする」なんて言葉は、ボランティア活動や募金などで呼びかけられることだ。それを人生の指針にするなんて、「この人マジで言ってんの?」と思ってしまう。

しかし、「社会貢献」という類の言葉を真剣に受け止められないのは、コペル君と私の社会状況が違うからだと思うのである。コペル君の世界は、シンプルに思える。「社会」は、豆腐屋の息子の浦川君や高等遊民の叔父さん、などの出会いでイメージされ、世の中は豊かな生産者(豆腐屋)と貧しい消費者(叔父さん)で構成されている。(そして両者が支え合って回っているのだ。)コペル君の「社会」は、地域の共同体である程度完結しており、その社会は貧富という分かりやすい構図で示されている。
対して、私にとっての「社会」は少々複雑だ。コペル君にとって「貧しい者」は友人の浦川君だが、私にとってはアフリカの飢餓の子供たちだ。私は豆腐を豆腐屋でなくスーパーで、本はamazonで手に入れる。私の「社会」は、現実のつながりとテレビやSNSによるイメージ的な広がりをみせ、その巨大な「社会」では企業などの大きな組織がひしめき合っている。この手に負えないぐらい大きな「社会」の隙間で、私はひっそりと生き、twitterで「授業だるい」と呟いたり、時給1000円でせっせと包装紙にお酒を包んだり、慣れないヒールで足の皮を引っぺがしながら就活をするなどしている。

コペル君と私の「社会」にはどのような違いがあるのか。コペル君は共同体から簡単に出ることはできない。だが、彼は豊かな者として、紛れもなく社会に所属している。言い換えるならば、社会は彼のために存在しているともいえるだろう。だが、私にとって「社会」は私と無関係に駆動しているものであり、労働や消費、つまりはお金を通して、個人として「社会」と繋がっていると思う。社会が私のためにあるとはどうしても思えない。私には、少しずつ降り積もった社会への不信感があるのだ。
20歳になったら納付義務が生じる年金は、私たちの世代は受け取れないらしいとまことしやかに囁かれている。某外銀に勤務する先輩は残業をしたくないなんていうのは甘えという一方で、就活中の友達は面接官から身体関係を迫られてどうしようもないと涙している。こうした一つ一つのことが積み重なって、社会は誰のために動いているのだろうかと思う。私が過労でふと死にそうになったとして、裁判所や法は私のことを守ってくれるのだろうか。「社会貢献」とはどの社会のために貢献することを意味するのか。

『それでも夜は明ける』というアメリカ映画がある。19世紀前半に北部の自由人だった黒人が、南部で奴隷になる話だ。この映画には、二つのタイプの奴隷が出てくる。元自由人の奴隷と、生来奴隷と。生来奴隷は生まれた瞬間から白人の主人に仕えることしか知らない。そして、奴隷社会での地位の向上と与えられる小さなご褒美を求めて、従順に主人に仕え、決して団結しない。人間らしさとは何か、と胸に問うてくる。
芸能人叩きやマインドフルネスなどの「ストレス対処法」をみると、私はこの映画を思い出す。人々は怒りを感じても、解決のために環境に働きかけるのではなく、消化してしまおうとしている。そしてそのストレスは、良い目をしていると思われる他者へ向かう。個人は分断され、不満は言いようのない怒りとして、四方八方に向かっている。流行りの「幸せ」言葉は、不満の中自分の生の正当性を示すためにあるのではないか。社会への大きな不満を無視して、自分の小さな幸せに逃げていないだろうか。

『君たちはどう生きるか』は、社会状況の違いを超えて、何か胸に訴えかけるものがある。それは、本著が人間らしさの探求というヒューマニズムに貫かれているからだ。人間らしい生とは何か。他の人々の尊厳を守ることなく、自分の尊厳が守られるということがあるだろうか。
私は、「社会」は私のために存在していると中々信じることができない。だから「社会のために」なんて言わないで、自分のために生きたいと思う。それは、自分のためでもある。また、多くの人々が人間らしい生を求めることが、人間らしい社会に達することに繋がっていくと思うからだ。コペル君は「社会をよくする」ことで、自分の幸せに向かうことができた。私は、自分勝手を貫くことで、自分と私を囲む「社会」をよくしたいと思う。
【文系R】

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